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東京地方裁判所 平成5年(ワ)11825号 判決

主文

一  被告らは、原告井上真樹に対し、各自金三二万円及びこれに対する平成五年九月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告らは、原告井上美子に対し、各自金三〇万円及びこれに対する平成五年七月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  被告らは、原告松下時男に対し、各自金三〇万円及びこれに対する平成五年七月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

四  原告らの被告らに対するその余の請求をいずれも棄却する。

五  訴訟費用は、これを一〇分し、その九を原告らの負担とし、その余は被告らの負担とする。

六  この判決は、第一項ないし第三項に限り、仮に執行することができる。

理由

第一  請求

1  被告らは、原告井上真樹に対し、各自金八九八万円及びこれに対する平成五年九月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告らは、原告井上美子に対し、各自金一〇〇万円及びこれに対する平成五年七月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  被告らは、原告松下時男に対し、各自金一〇〇万円及びこれに対する平成五年七月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、被告らの肩書住所地の近隣の建物に貸室を有している原告井上真樹(以下「原告真樹」)並びに右建物の別の一室に居住している原告井上美子(以下「原告美子」)及び原告松下時男(以下「原告松下」)が、被告らが飼育している犬の鳴き声によつて、原告真樹については賃借人が賃貸借期間の途中で賃貸借契約を解除したため得べかりし賃料分の損害を被つたとして、原告美子及び原告松下については精神的損害を被つたとして、被告らに対し、飼育における注意義務違反を主張し、不法行為による損害賠償請求権に基づき損害賠償金の支払(付帯請求は、原告真樹については賃貸借期間の終了日の翌日から、原告美子及び原告松下については訴状送達の日の翌日からの民法所定の割合による遅延損害金)を求めた事案である。

一  基礎となる事実

1(一)  原告真樹は、アーノルドアンドポーター法律事務所(以下「A・P法律事務所」)に対し、平成二年七月二八日、東京都渋谷区松涛《番地略》松涛ホーフアパートメント(以下「松涛ホーフ」)一〇二号室を次の約定で賃貸し、右貸室には、マシュー・サイデン(以下「サイデン」)が居住を開始した。

(1) 賃貸借期間 平成二年九月一日から二年間

(2) 賃料 一か月一六〇万円(駐車場料金三万円を含む)

(二)  右賃貸借契約は、平成四年八月三一日、自動的に一年間更新された。

(三)  A・P法律事務所は、原告真樹に対し、平成五年一月一二日、同年三月一二日をもつて賃貸借契約を解消することを通告した。

2  原告美子及び原告松下は、昭和五四年ころから、松涛ホーフ三〇二号室に居住している。

3  いずれも肩書住所地において、被告甲野太郎(以下「被告太郎」)は、平成二年四月から雄の柴犬一匹を、被告甲野一郎(以下「被告一郎」)は、同月から雌のピレニアンマウンテンドック一匹、平成三年一月から雄の紀州犬一匹を、被告甲野春子(以下「被告春子」)は、平成四年二月から雌のピレニアンマウンテンドック一匹をそれぞれ飼育している(被告らが原告ら主張の犬を飼育している事実は争いがなく、飼育開始時期については成立に争いのない甲一)。

二  争点

1  被告らの飼犬の鳴き声の異常性(原告らの主張)

被告らの飼犬は、遅くとも平成三年一月から(被告春子の飼犬については平成四年二月から)、連日長時間にわたり吠え続けており、とりわけ、鳴き声は、午前一時ころの深夜、午前五時ころの早朝に響きわたることが多い。

ちなみに、平成四年一二月一九日から平成五年三月八日までの鳴き声の状況は別表のとおりである。

(被告らの主張)

従前、被告らの隣地居住者又は道路の反対側の居住者から犬の鳴き声について苦情が申し立てられたことはない。

2  被告らの注意義務違反(原告らの主張)

被告らは、犬を飼育するにあたつて、異常な鳴き方をしないよう防止する義務があるにもかかわらず、右義務を果たしていない。

(被告らの主張)

被告らは、平成五年七月一一日以降同年八月二五日までに、ピレニアンマウンテンドック二匹の犬小屋の周囲に防音設備を建築し、夕方から朝までは右設備の屋根、窓、戸を閉めている。

3  原告らの損害(原告らの主張)

(一) 松涛ホーフと被告らの肩書住所地とは、幅員約三メートルの道路を挟んだ斜め向かいに位置している。

(二) サイデンは、被告らの飼犬の異常な鳴き声に耐えられず、松涛ホーフからの退去を決めたため、A・P法律事務所は、一・1・(三)の賃貸借契約の解消を通告した。

この結果、原告真樹は、平成五年三月一三日から賃貸借期間満了の日である同年八月三一日までの賃料八九八万円を得ることができず、少なくとも右と同額の損害を被つた。

(三) 被告らの飼犬の深夜早朝の鳴き声によつて、原告美子及び原告松下は、眠りにつこうとしても寝つかれず、やつと寝ついたかと思うと起こされる日々が続き、心身ともに疲れ切つている。

右により、原告美子及び原告松下は、それぞれ一〇〇万円を下らない精神的損害を被つた。

第三  争点に対する判断

一  争点1について

1  《証拠略》によれば、被告らの飼犬等に関して、次の各事実が認められる。

(一) 松涛ホーフの所在地(原告らの肩書住所地)と被告らの肩書住所地とは、間に一軒を挟んで道路の反対側にあり、周辺は、都知事公館もある住宅街であつて夜間は静かな環境にある。

(二) 原告真樹は、原告美子の子、原告松下は、原告美子の弟で、原告美子は、昭和三五年から肩書住所地に居住しており、昭和五二年に住居を木造二階建ての家屋から鉄筋コンクリート三階建ての松涛ホーフに建て替えた。

松涛ホーフには、被告らの肩書住所地に近い側に一〇二号室(メゾネット方式の居室)と三〇二号室、遠い側に一〇一号室、二〇一号室、三〇一号室の合計五室があり、昭和五四年ころから、三〇二号室に原告美子と原告松下が居住し、三〇二号室以外の四室は賃貸されている。

(三) 被告一郎及び被告春子は、被告太郎の子であり、被告らは、昭和四九年から肩書住所地に居住している。

しかし、原告らと被告らとの間には、昭和四九年以来、いわゆる近所づきあいは全くと言つていいほど行われていない。

(四) 原告美子は、平成元年暮れころから、被告ら宅の飼犬の鳴き声がうるさいと感じていたが、平成二年九月から松涛ホーフ一〇二号室にサイデンが居住するようになり、すぐに、サイデンから、被告ら宅の飼犬の鳴き声が夜間うるさいとの苦情が出るようになつた(当時から、被告ら宅では、犬が四匹飼われていたが、第二・一・3以外は飼育者は不明である)。

サイデンは、被告ら宅に飼犬の鳴き声について対処を求めたが、話合いにならなかつたため、平成三年二月には、渋谷区役所に対し、原告美子及び原告松下を含む松涛ホーフの他の居住者並びに近隣の者合計九名の署名を添えて「甲野宅で飼われている四匹の犬の鳴き声によつて多大な迷惑を被つているので、甲野家に対し犬を静かにさせる措置を取るよう働きかけてほしい」旨の嘆願書を提出した。

(五) また、原告美子は、同年三月には、渋谷区保健所に対し、「甲野宅の飼犬四匹のうち二匹が夜中から朝方ころまで吠え続けて安眠できない」旨の苦情を申し立て、右保健所においては、被告ら宅を訪問し、「鳴き声には気づいているので、対策として、鳴き続けないよう犬の所に行つて止めるようにしている」との回答を得た。なお、同年四月には、右保健所に対し、再度鳴き声の苦情が寄せられている。

(六) しかし、その後も、被告らの飼犬の鳴き声の頻度に変化がなく、むしろ、ピレニアンマウンテンドックの成長により鳴き声が大きく響くようになつたため、原告美子は、松涛ホーフの管理会社の従業員を通じて、平成四年一〇月五日には渋谷区保健所に対し、同月七日には渋谷警察署に対し、それぞれ、被告ら宅の飼犬の鳴き声がうるさいと苦情を申し立てた。

そして、サイデンは、松涛ホーフにはもう居住できないとして、A・P法律事務所を代理して、原告真樹に対し、平成五年一月、同年三月をもつて賃貸借契約を解消することを通告した。

(七) 原告美子及び原告松下がメモしていたところによると、平成四年一二月一九日から平成五年三月八日までの犬の鳴き声の状況は別表のとおりであり、ほぼ連日、朝方及び夕方から夜にかけて鳴いていることが多い。

2  1で認定した事実を総合すると、被告らの四匹の飼犬は、遅くとも平成三年一月から(被告春子の飼犬については平成四年二月から)本件訴えを提起するに至るまで、連日、一定時間断続的に鳴き続け、その時間が夜間又は朝方にかかることが多かつたことが認められ、原告美子やサイデンの対応をことさら過剰なものとみなす事情もうかがえないから、被告らの飼犬の鳴き声こそ、近隣の者にとつて受忍限度を超えたものであると認めることができる。

二  争点2について

住宅地において犬を飼育する以上、その飼主としては、犬の鳴き方が異常なものとなつて近隣の者に迷惑を及ぼさないよう、常に飼犬に愛情を持つて接し、規則正しく食事を与え、散歩に連れ出し運動不足にしない、日常生活におけるしつけをし、場合によつては訓練士をつける等の飼育上の注意義務を負うというべきであるところ、被告らの飼犬が一項で認定したような異常な鳴き方をしている事実からすると、被告らは、右の注意義務を怠つたものといわざるを得ない。

なお、被告らは、本訴が提起された後平成五年八月二五日までにピレニアンマウンテンドック二匹の犬小屋の周囲に防音設備を建築したことを主張し、《証拠略》によれば右の事実は認められるが、被告らが従前被告らの飼犬に対しどのようなしつけを行つたのか、実際に誰がどのようにして犬の面倒をみているのか等を明らかにしない。

右によれば、被告らは、犬飼育上の注意義務に違反したものとして、原告らの被つた損害を賠償すべきこととなる。

三  争点3について

1  第二・一・1のとおり、A・P法律事務所は原告真樹に対し平成五年一月一二日に同年三月一二日をもつて賃貸借契約を解消することを通告したが、《証拠略》によれば、サイデンは、同月末日に松涛ホーフ一〇二号室を退去し、同月分までの賃料は支払つたこと、それ以外の金員は支払つていないことが認められ、前掲甲五によれば、原告真樹とA・P法律事務所との間の賃貸借契約には、「賃貸借期間中であつても、借主は貸主に対して三か月以上の予告をもつて契約の解約を申し入れることができ、予告期間が三か月を満たさない場合、借主はその不足日数の賃料相当額を貸主に支払い契約を解約することができる」旨の約定があることが認められる。そうすると、サイデンの退去にあたつて、原告真樹が右約定をそのまま適用した場合と比べて得ることができなかつた賃料相当額は、一二日分、すなわち、六四万円ということになる。

一項でみたとおり、サイデンが松涛ホーフ一〇二号室の賃貸借契約解消を通告した原因は被告らの飼犬の鳴き声にあると認められるが、賃貸借契約期間中の解約自体は当初から契約に定められていたのであるから、原告真樹の損害としては、右約定を忠実に適用した場合とこれを適用できなかつた場合の差額とみるべきである(なお、《証拠略》によれば、原告真樹は、不動産業者を通じて次の賃借人を募集し、平成五年六月か七月には次の賃借人の入居をみたことが認められる)。

そして、原告真樹は、松涛ホーフの賃貸借にあたつて株式会社シュミットに管理を委託していること等を考慮すると、賃貸借によつて原告真樹が得る利益は、少なくとも賃料の半額と認めるのが相当であり、右によれば、サイデンの退去によつて原告真樹が被つた損害は、前記六四万円の半額である三二万円であると認められ、それ以上の損害については、これを認めるに足りる証拠がない。

2  一項で認定した事実、《証拠略》によれば、原告美子及び原告松下が被告らの飼犬の鳴き声によつて精神的苦痛を被つたことが認められるが、その慰謝料額は、本件に現れた全事情、とりわけ、飼犬の鳴いている時間帯及び長さ、被告らが現在は犬小屋に防音設備を施したこと、犬の鳴き声というより近所づきあいのなさという人間対人間の問題が根本にあると考えられること等を考慮すると、各三〇万円とするのが相当である。

四  右によれば、原告らの本訴請求は原告真樹について三二万円、原告美子及び原告松下について各三〇万円の損害賠償金(及び付帯請求)の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余はいずれも理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 江口とし子)

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